世界でひとつだけの〈哲学堂〉創立者
『井上円了の哲学から経営知を語る』
2022年9月、三恵社から出版しました
2023年2月、増刷されました
増刷(第二刷)にあわせて誤字を直し
表記をいくつかわかりやすくしました
1.誤解された哲学者 井上円了
井上円了博士は、第2回海外視察から帰国した明治36年12月に出版した『円了漫録』
の冒頭で「余が遺言状なり」と記したうえで、「第八話 哲学者」において、こう述べ
ています。
哲学館は坊主学校のごとくに誤解されたることを知るべし。
かかる誤解を正して哲学の実用を知らしむるは、哲学館出身者の業務および言行に考う
るよりほかなし。
(中略)
宗教と教育とは哲学の直接の応用たるによるといえども、余は哲学の応用はそのほかに
なお多々あるを信ず。政治も実業も美術も、みなその応用の一つなり。
ことにわが国の実業につきて、最も欠けたるものは哲学の応用なり。
その応用とは実業道徳の修養をいう。
今日わが国の実業家が、実業に道徳は無用なるがごとく唱うるもの多きは、実に嘆ずべ
きの至りなれば、今後、哲学館出身者は進みて実業界に入り、実業道徳を奨励して、
実業と哲学との間に密接の関係あることを示されんことを望む。
(『井上円了選集』第24 巻、206頁)
私は「四聖(釈迦、孔子、ソクラテス、カント)」の一聖に偏(かたよ)らない、円了博士の
哲理の中道を、今を生きる指針にしています。
以下、長くなりますが、最後までお読みいただけましたら幸いです。
(財)東京都公園協会 発行パンフレット(表・裏)
2.日本哲学の礎をつくった哲学者 井上円了博士
東洋大学の建学の精神は「諸学の基礎は哲学にあり」です。
東洋大学の学祖 井上円了博士(以下、円了博士という。)を、仏教学者、仏教哲学
者と評しては、看板に偽りあり、となります。
円了博士は安政5(1858)年、新潟県長岡市浦の浄土真宗大谷派 住職の長男と
して生まれましたが、幼少期から仏教の説く地獄・極楽は非真理と考える、真理感
が宿っていました。
円了博士は東本願寺の給付留学生として、理論面から仏教回復を志して、東京大学
文学部哲学科に明治14(1881)年9月、入学しました。
入学後、お雇外国人教師モース(大森貝塚の発見)、フェノロサらに倣(なら)い、
キリスト教を批判し、仏教の優位性を発表しました。
アーネスト.F.フェノロサは、明治11(1878)年、東京大学文学部の政治学、
西洋哲学、社会学の教師として来日しました(25歳)。
フェノロサは、スペンサーの社会進化論とヘーゲルの弁証法を研究して「正・反・
合」の弁証法を教示しました。
また、東洋と西洋の融合を理想(長詩「東と西」)とし、大乗仏教を「東洋のヘーゲ
ル哲学」にたとえて、明治18年、仏教徒になりました。
写真は、アーネスト・F・フェノロサ 40代(再来日の頃)
山口靜一編『フェノロサ社会論集』(思文閣出版、2000年)より
明治天皇から外国人最高位の勲三等瑞宝章を授与され、今日では日本近代美術の父と
呼ばれます
フェノロサは、琵琶湖畔の三井寺法明院に、日本美術の蒐集家ウイリアム・ビゲロウと
ともに眠っています
(山口靜一『三井寺に眠るフェノロサとビゲロウの物語』宮帯出版社)
しかし、円了博士は、在学中、志しが変わりました。
「西洋諸国の富強にして、わが国のこれに比して貧弱なる」こと「仏教を盛んにせんと
欲せば、まずこの国を盛んならしめざるべからず。」「学者としては真理を愛し、国民
としては国家を護らざるべからず。」(『教育関係宗教論』井上円了選集第11巻)
そして、円了博士は、こう述べます。
わが東洋にありては、西洋人のいまだ研究せざる従来固有の哲学ありて、その中に
また、おのずから一種の新見ありて存するを見る。もし、今日これをわが国に研究
して西洋の哲学に比較対照し、他日その二者の長ずるところを取りて一派の新哲学
を創成するにいたらば、ひとり余輩の栄誉のみならず、日本全国の栄誉なり(明治
20年6月「哲学の必要を論じて本会の沿革に及ぶ」『井上円了選集第25巻』)
哲学(philosophy)の原意は「愛知」、真理を希求することです。
円了博士は、真理を追求して卒業の年(明治18年)に「先人、数千年来研究したる
は唯この一点にして、吾人 将来研究せんとするも亦、唯この一点なり」(「易ヲ論
ス(続)」学芸志林第17巻)と自得しました。
この一点について、円了博士は後年、循化相含(じゅんかそうがん)と表現しました。
「循化にして相含、相含にして循化と答えざるを得ぬ。これが宇宙の真理なりと
いうのが、余が天地の活書を読んで得たる哲学である。」(『奮闘哲学』)
循化相含とは、相反するもの、たとえば、我と無我、生と滅、善と悪、平和と戦争、
理想と現実、正義と不正、有益と有害、個人と組織、成長と衰退などが、一体両面・
二者相含であり、進化と退化とが循化していることです。
矛盾すなわち真理なり(『奮闘哲学』)です。
わたしは、循化相含を、西洋の弁証法と東洋の弁証法を、日本人の立場から総合した
弁証法的両義性と解します。この世界観は、東京大学(当時)西洋哲学の教師フェノ
ロサ(オリエンタリスト)の進化論的弁証法(正・反・合)を正すものでした。
(弁証法については『井上円了の哲学から経営知を語る』をご覧ください。)
そして、次の世代の哲学者、西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一、田邉 元の絶対的弁証
法など、ヘーゲルの観念弁証法とマルクス主義の唯物弁証法との対立のもと、日本的
弁証法は継承されて、深化していきます。
円了博士の哲学を理解するのが難しいのは、循化相含(矛盾)を弁証法的現実として
つかむことがむずかしいからです。
2011年10月12日放映 哲学堂公園 哲理門
もしも哲学なかりせば、多くの人は迷信の 良心の声を聞き 良知の光に導かれて
雲に迷うて生涯を、暗夜のうちに終わるべし 世界の実業舞台にて活動せよ
(『奮闘哲学』) (『奮闘哲学』)
また、円了博士は、こうも述べています。
東洋哲学と西洋哲学とはひとり実質のみならず、その形式もまた大いに異なるところ
あり。故によくこの二者を総合結成するに至らば、必ず哲学の舞台において、新演劇
を開くを得べし。余のごときはただその三番叟を演ずるのみ(明治42年「哲学新案」
『井上円了選集第1巻』)
三番叟とは、開演にあたって演じられるもの、円了博士は、日本哲学の礎をつくった
哲学者です。しかし書斎の学者ではありません。
円了博士は、哲学事業の資金繰りに悪戦苦闘しながら、 哲学を応用して、青年期は、
仏教改良、妖怪と闘い。壮年期から、タダモノ論と闘いました。
仏教改良では、仏教の注釈書や教相判釈を超えて、東アジアで初めて仏教に弁証法を
応用しました。そして、仏教を悲観・厭世主義から楽観・活動主義へ、また、迷信的
なもの(地獄・極楽など)と、哲学とを分け仏教界に哲学の必要性を啓蒙しました。
妖怪研究では、実証科学をとおして、庶民に妖怪の不存在を解明して、迷信に囚われ
た心を解放するとともに、実証科学の限界を啓蒙しました。
タダモノ論(破唯物論)とは、拝物主義・拝金主義のこと、すなわち経営心学です。
経営心学では、商店の店員に、商売の七ッ道具として、正直、勤、倹、貯蓄、信、義、
熱心、の講話(「修身」明治42年5月1日号)を行う他、製糸工場の工女や職工のモラ
ル教育をとおして、健全な実業の発展に寄与しました。
また、心理学も忘れてはなりません。
円了博士の心理学研究は、のち精神科医 森田正馬によって、対人緊張、強迫症状、
パニック発作などの神経症や、日常生活における心理的事象に対する森田療法として
受け継がれています。また、「改良新案の夢」「新記憶術」の研究もあります。
青淵文庫(絵葉書)
東京・飛鳥山「渋沢史料館」
幕末から明治にかけては、百科全書派的な知識人が輩出しました。
円了博士も百科全書派的な知識人の一人です。
仏教思想は、円了哲学の源泉のひとつです。仏教学者らは、源泉のひとつだけを強調
して、円了博士を仏教学者と評します。しかしそれは、 円了哲学の一面を伝えるもの
で、全体像を捉えたものではありません。
仏教学者宮本正尊(1893-1983)は「筆者はつとに円了の人となりとその経営哲学を
はつきりとつかむには、大隈よりも福沢、福沢よりも『渋沢青淵』を正面におく方が
よい」「円了の念願は、国民道徳の高揚にあった」(『明治仏教の思潮 井上円了の
事績』)と述べています。
新1万円札の肖像 渋沢栄一(1829-1903)は「その富を成す根源は何かといえば、
仁義道徳、正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することはできぬ。
ここにおいて論語と算盤という懸け離れたものを一致せしめる事が、今日の緊要の
努と自分は考えているのである。」(『論語と算盤』)と述べました。
円了博士も「国を富ます直接の道は農工商の実業に相違なかろう。かつその実業を
盛んにする方法は、金銭よりも財産よりも実業道徳である。」(『奮闘哲学』)と
述べました。
哲学には(講壇哲学者の)理論志向と(人生向上の)実践志向があります。
円了博士の哲学は、実践志向の哲学です。実践のなかで、哲学をいかに生かすかが
一番よく現われるのは、事業活動の場です。
新潟県長岡市浦 慈光寺
2016年11月13日、撮影しました
すぐ近くの土手を登ると信濃川でした
慈光寺へは長岡駅前からバスで往復しました
帰りの乗客は、わたし一人でした
米百俵 小林虎三郎の思想 編集委員会より
円了博士は、米百俵の精神が宿る
新潟学校第一分校(長岡洋学校)を卒業
京都東本願寺の教師教校英学科 に入学
翌年、給付留学生として上京しました
3.円了博士の人生
円了博士の人生の転機は、3つあります。
1つは、東本願寺(本山)の給付留学生に選ばれたことです。
2つ目は、給付留学生の目的に背いて、本山の教師教校に戻らなかったことです。
円了博士ら給付留学生は、本山に戻って学校づくりに尽力する責務がありました。
またもし、本山に戻れば、学長ポストが用意されていたことでしょうが、戻りませ
んでした。信義に背く行為ですが、大きな組織に依存しない独立自活の人生を選択
しました。
後輩の清沢満之らは、篤く本山の恩を思い、本山の教師教校に戻りました。
清沢満之は、真宗大学初代学長(現・大谷大学)となり、日本を代表する仏教哲学者
になりました。
円了博士は、家貧しく赤貧多病ながら、独力で寄付者を募り、哲学書院、私立哲学館
(のち哲学館大学、現・東洋大学)を創立し、 『哲学会雑誌』を創刊して(明治20年)
哲学の事業化すなわち、哲学の普及を志ました。
しかし、給付留学生のリーダー 井上円了に期待していた、本山は怒りました。
話し合いののち、円了博士の願いを容認し、東京で「印度哲学」の研究を行なうよう
命じました。
円了博士は、哲学館を経営しながら「日本仏教哲学系統論」で博士号を授与されまし
た(明治29年6月9日付『官報』第3882号)。
円了博士は「還俗」はしませんでしたが「得度は、自然に本山に委託返上したる姿に
なり」(「信仰告白に関して来歴の一端を述ぶ」)ました。
学生には、哲学館教育は、忍耐すなわち辛抱主義となさん、と説きました。
忍耐、辛抱、勤勉、倹約、正直、誠実は、通俗哲学です。
知識人は通俗哲学を軽蔑します。しかし、ある作家は「歯痛によく耐えた哲学者とい
うものは、かってなかった。」と述べています。
知識人にも忍耐、辛抱、勤勉、倹約、正直、誠実が必要です。
円了博士は、哲学には、向上門と向下門があると述べます。
向下門の哲学は、向上門の究竟理を、実践躬行する道を、教ふることに外ならず。
(「哲学唱和和讃」より)
向上門の頂(いただき)は、真理の自得であり、向下門は、自得した真理にもとづいて
人の道を歩くことです。真理を愛し、精神修養を心がけ、国利民福(公益)に尽くす。
円了博士の「護国愛理」の精神です。
哲学堂公園 六賢台 時空間(じくうこう)
東洋の六賢人 哲学堂では、南無絶対無限尊を三唱します
聖徳太子、菅原道真、荘子 絶対とは宇宙的時間、無限とは宇宙的空間です
朱子、龍樹、迦毘羅 宇宙は生命の根源です
3つ目は、哲学館事件(明治35年)です。
円了博士の生涯は、哲学館事件を境にして、前半生と後半生にわかれます。
哲学館事件について、ここでは、皇室の尊厳と国体の精華とに関する大問題(清水清明
編『哲学館事件と倫理問題』凡例五則、明治36年3月28日発行/ みすず書房、1989年)
となった事件というにとどめますが
円了博士の立場からいえば、
哲学館事件は、天皇制絶対主義の思想統制と哲学者との対立であり、
学生数増加のために無試験検定を再出願したい教職員と学長(創立者)との対立でした。
再出願運動は、同窓会組織の改革へと発展して訴訟沙汰に至りました。
学校経営の失敗に、円了博士は心身が不調になるまで悩み、学校経営から引退(48歳)
しました。表面は退隠ですが、内心は悔しかったことでしょう。
「たとえ失敗するも、落胆することなかれ、最後の勝利は堅忍不撓の人に帰すべし、」
(『奮闘哲学』)
円了博士は「最初は飽まで通俗本位なりしも、時の勢に誘われ風潮に動かされ、自然に
高尚に傾くようになりて、遂に大学専門科までを開設するようになって来た。」
(「哲学上に於ける余の使命」)と述懐します。
エリートを育てる学校教育に限界を感じた、円了博士は国民道徳を育てる社会人教育へ
と奮闘の場を移します。それは地域の、農村の青少年の独立自活、モラル向上こそが、
健全な国づくりの基本であり、哲学の実行化です。
円了博士は「哲学上に於ける余の使命」として、①哲学を通俗化すること、 ②哲学を
実行化すること、の2つをあげました。
①哲学を通俗化することは、前半生の事業(哲学館、現・東洋大学の設立や著書による
哲学の普及)にして、目的は達したが、
②哲学を実行化することは、後半生の事業にして、半途であると書き残しました。
また、前半生の事業は、準備にして、後半生の事業は、目的であるとも述べています。
学者の多くは、青年期の未熟な準備段階の著作(『真理金針』、『仏教活論序論』など)
から円了博士の思想を評しています。
しかし、思想は成熟しますので、人生の真実は、その人の晩年に顕れます。
円了博士の哲学は、後半生の著作(『哲学新案』、『奮闘哲学』)から、評すべきで
でしょう。
ただし『哲学新案』には仏教用語が使われていますので、誤解されます。
明治の知識人は、西洋思想や自らの考えを儒学的用語や仏教的用語を換骨奪胎して自在
に表現していました。
換骨奪胎とは、外見や言葉はもとのままで中身を取り換えることだといえましょう。
したがって、仏教研究者が『哲学新案』で使用されている仏教用語の出典先を微に入り
細に入り調べて、国際井上円了学会学術大会で発表しても、円了博士の哲学・思想には
至りません。
学者さんが嫌がるのは、円了博士が、こう述べていることです。
「学者さんなど屁理屈ばかり、理屈で国が富むものか」と記し、結語として「滔々たる
天下みな死学死書を歓迎する今日なれば、一人の学者も一人の学生も、この教外別伝の
活学活書に賛成するものないかも計り難い。もし一人もなしとすれば、天下の学者全国
の学生をわが敵として、生涯奮闘する覚悟である。」(『奮闘哲学』)
では、円了博士の意に反する、国際井上円了学会に存在理由はあるでしょうか。
また、明治前期、フランスに留学した中江兆民が、我が日本、古より今に至るまで、
哲学なし、と述べように、日本哲学の準備期であったことも考慮しなければなりません。
1980年放映のNHK大河ドラマ『獅子
の時代』は、慶応3年(1867)、パリ
の万国博覧会から憲法草案づくり、秩 父国民党の武装蜂起(秩父事件)まで を描いています(VHS、NHKソフトウ エア、2000年)。
円了博士が創業した哲学書院から明治 27年、イェーリングの名著 宇都宮五 郎訳『権利競爭論』(現題『権利のた めの闘争』岩波文庫)が発行されてい ます。
明治14年には民間の「五日市憲法
草案」(2013年に上皇后が「深く
感銘を覚えた」と感想を述べられ
ています)。植木枝盛の「東洋大
日本国国憲案」などは戦後、マッ
カーサー憲法草案に影響を与えた
といわれ(図録『誕生日本国憲法』
国立公文書館、2017年、参照)
現在の「日本国憲法」につながっ
ています。
4.哲学堂の使命
円了博士は、人生の目的である、哲学の実行化として〈字をかきて 恥をかくのも
今暫し 哲学堂の出来上がるまで〉と寄付金集め(講演・著述・揮毫)に奮闘します。
そして、中野区有形文化財を有する建築物、東京都指定名勝、国指定名勝になった
哲学堂公園づくりに、いのちを燃やしました。
哲学堂は、拝金宗本山(拝金宗本山については『井上円了の哲学から経営知を語る』をご覧くだ
さい。)に対する、
社会教育の道場、哲学実行化の根本中堂、道徳山哲学寺の大本山であり、世界で
ただ一つの精神修養公園です。精神修養とは、人格・人徳形成のことです。
世界の「四聖」(釈迦、孔子、ソクラテス、カント)が教示する真理を味わい、
自己の良心を自覚することです。
利害得失に流されない、自己の良心こそが、哲学する心であり、人格・人徳形成の
基本です。なお、良心という漢語を最初に使用したのは、孟子(告子編)です。
東西の哲学者を記念する、世界でただひとつの、哲学祭は、1885(明治18)年10月
27日に開催(円了博士27歳)されました。
1904(明治37年)10月23日、四聖堂落成(円了46歳)
1919(大正8年)第1回哲学堂祭(円了の遺言により開催)
以後、(戦時中を除いて)毎年1回、11月第1土曜日、東京都中野区哲学堂公園に
おいて、一般公開で開催されています。
記念講演(宇宙館)
2021年〔孔子〕 「論語とラグビー」東洋大学 理工学部 教授 吉田善一氏
2022年〔ソクラテス〕「ソクラテスの告発者たち」文学部哲学科 教授 松浦和也氏
2023年〔カント〕 「カント哲学と現代」文学部哲学科 教授 三重野清顕氏
2024年〔釈迦〕 「『般若心経』を読み直す」文学部東洋思想文化学科 教授 堀内俊郎氏
2025年〔孔子〕
四聖堂 四 聖
http://tetsugakudo.jp/) カント、孔子、釈迦、ソクラテス
(https://www.toyo.ac.jp/)
円了博士は「哲学堂由来」で、こう述べています。
余輩は哲学を専修するものなり。・・・先聖古賢の多き、いちいちこれを祭る
べからず。もし一人を祭りて他を祭らざるときは不公平の祭祀たるを免れず、
不公平はすなわち不道理なり、・・・この四氏はみな哲学の中興にして、その
以前の哲学を統合しきたりて一大完全の組織を開き、もって後世の哲学の基礎
を置きたる者なる。・・・故に四聖その人を祭るの意は、哲学そのものを祭る
にあるを知るべし。
あわせて、東京大学 漢文学の教師 文学博士 中村正直(敬宇)の「四聖同像賛」
を紹介しています。以下は、現代表記です(『井上円了選集第12巻』)。
孔子と釈迦の教えは人々を溺れたり焚かれたりする境地より救う。
もしこの二聖人がおられなかったならば、人類と鳥類のごとき動物とどのように
区別しようか。
ヨーロッパの哲学者でもっとも推戴に価するのはソクラテスとカントである。
あおがれる師匠はもとより道徳の根本を知っている。
しかし、弱肉強食のありようは今もなおやむことなく、すぐれた美しい世は
いったいいつまで待つべきなのであろう。
かがやくともしびのあまりの光にわが老いたるをなげき、過去を引き継ぎ未来を
開く望みは才知すぐれた人にあるのである。
中村敬宇(正直) 井上円了
国立国会図書館 (戦前絵葉書)
「近代日本人の肖像」より
東京大学(当時)での、中村正直と円了の第4学年の授業(易論)では受講生が少なく、
2人だけで行われました。 卒業後、円了は、中村正直が設立した、同人社で教員を努めま
した。
中村正直は幕末期、日本最高の漢学者であり、渋沢栄一も論語を、中村正直から学びました。
また、正直はイギリス留学生の取締役として同行しました。
帰国後、正直が翻訳したスマイルズの『西国立志編』はベストセラーになりました。 同じく
翻訳した、J・S・ミル訳『自由之理』は自由民権運動に大きな影響を与えました。
円了博士も海外視察を3度、行い視野を広げました。とりわけ、イギリスに滞在して、
個人主義、自由主義、社会道徳を理解し、わが国の国民道徳向上の必要性を痛感しました。
円了博士の念願は、哲学堂庭園内に不読学舎を建てて、同志を集め、哲学の実行化を練習せし
むること。すなわち、学者の死学死書は参考にして、己の本心より自発自覚せるものに基づい
て活動する国民を育むことでした。
そのための準備が、修身教会運動(のち国民道徳普及会、会長円了。会員なし、支部なし。)
です。
修身教会の大要(『井上円了選集第12巻』)
近年わが国民の知識日に勃興し、道徳月に廃頽し、智徳の並進伴行せざる傾向あるは、
あに奇怪なる一現象にあらずや。その原因もとより一ならずといえども、要するに
学校以外に修身道徳を授くる所なきによる。これに反して西洋諸国は学校以外に日曜
教会ありて、毎週精神の修養をなさしむ。
おもうに、かの国において人民の知識とともに徳義また進み、なかんずく社会道徳、
実業道徳の大いに発達せるは、全くこの教会の効果なりというも過言にあらざるべし。
修身とは、身を修め、心を正しくすること。儒学の目的を簡潔にまとめた『大学』に「上は
天子より下は庶民に至るまで、一切(いっさい)みな修身(しゅうしん)をもって本(ほん)とす
る。」(宇野哲人全訳注〔通解〕講談社学術文庫)とあります。人の世のあるべき姿です。
円了博士の全国巡講の記録「南船北馬集」には、修身教会運動が賛同を得たこと、修身教会
が各地に設立されたことが記されています。
当時は、天皇制絶対主義を批判する思想(自由民権運動、無政府主義、社会主義思想など)
だけでなく、天皇制を超越する思想(ある時期、弾圧された天理教、丸山教)も危険思想
として取締の対象でした。
明治憲法の下では、教育は天皇の大権に属する事項として、すべて勅令により、教育勅語の
価値観にもとづいて施行されていました。また、言論も、新聞紙条例、出版条例、集会条例、
保安条例などによって統制されていました。
円了博士の、表面は日本主義、裏面は宇宙主義という二者相含の考え方や、哲学的宗教も
天皇制を超越する思想です。危険視されていたといえましょう。
活動が再び、危険思想と見なされ迫害されないよう、ひとり哲学運動でした。
哲学堂の使命については、円了博士のご子息 故井上玄一の「井上円了博士の人と業績」
(東洋大学甫水会編)から紹介しましょう。
たとえ父は哲学者としては批評されるにしても民間指導者としては高く評価されねばならぬ。
東洋哲学には哲学者と云うことばの外に哲人、父のことばを用うれば「哲学実行者」がある。
この第二の意義が考えられる時に始めて哲学堂は正当に認められるのである。それ故に私は
哲学堂の使命を哲学実行者の育成にあると主張する次第である(原文のママ)。
哲学実行者(フィロソフィ・シティズン)は、抽象的な理屈をこね廻す、哲学の先生(学者)
のことではありません。円了博士は、こう述べています。
「一青年が質問して申すには、活動する前に人生の目的をたしかめ置く必要がある、是れが
先決問題であるが、色々の書物を読み、諸家の説を探って見るに十人十色、百人百色、未だ
人生の目的が確定して居らぬ。依て活動してよいかわるいかが不明である、余は之に答へて
活動することが即ち人生の目的であると申した、(中略)又書生が申すには其中に存する
理由如何、余は其理由も亦活動して後知るべきである、故に只活動あるのみ」
(「哲学の極知」『東洋哲学』第26編)
藤村 操 / 巌頭之感
(絵葉書は日光華厳の滝で購入しました)
明治36年、第一高校生藤村 操(18歳)は、哲学宗教を
専攻していましたが「人生不可解」の辞を残して、
日光華厳の滝へ飛び込み、当時、社会に大きな衝撃
を与えました
黒澤明監督「生きる」
(東宝株式会社発売DVD)
映画は、市民課の課長(主人公)が死に直面して
煩悶します。そして、退職した部下(若い娘)に
「きみは、どうしてそんなに活気があるのか」と
尋ねます。娘さんは「わたし、ただ働いて食べて
それだけよ」「こんなものでもつくってると楽し
いわよ」「課長さんも何かつくってみたら」と
答えます
人生の目的は、答えのない問題です。
とはいえ青春期は、いつの時代も、誰でも、何になりたいのか、何がしたいのか、わからない
ものです。
円了博士は、哲学は実際上人生を向上するの学、と定義しました(『奮闘哲学』)。
砂糖の甘さは、なめてみなければわかりません。同じく、ものごとには、情報(知識)として
すぐわかること、と体験(活動)してみなければ、わからないことがあります。
円了博士の庶民哲学は体験(活動)しながら、気づき(真理を)自得するものだと思います。
東洋のルソーと評された、中江兆民は「哲学を以て、政治を打破するこれなり。道徳を以て、
法律を圧倒するこれなり。 良心の褒章を以て、世俗の爵位勲章を払拭するこれなり。」と記し
ました。哲学の効用は思想練磨の術です。
社会生活のなかで、自己の思想・良心(憲法第19条 思想及び良心の自由)を練磨しながら
人の道を歩むこと、これが円了博士の遺志を現在に活かすことだと思います。
円了博士は、政府からの表彰の儀を2度、辞退しました。
東洋大学の学長復帰の要請も断りました。
真理を愛し、国を愛し、哲学事業を愛した、無位無官の奮闘哲学者です。